「咳をしても一人」
尾崎放哉は孤独を愛したのではなく、第一級の寂しがり屋だったと思える。何故命の限り句作を続けたのか。それは、作品だけが荻原井泉水をはじめ句界の人々とつながる唯一の綱であり、自身の値打ちを世に示す細い道筋だったからではないだろうか。
「万有引力とはひき合う孤独の力である」
谷川俊太郎の洞察は、ニュートンを超える響きだ。
「二十億光年の孤独に僕は思わずくしゃみをした」
俊太郎が宇宙でくしゃみをしたように、重い病の放哉もまた、誰もいない部屋で咳をして、たったひとりだと確認する。そして、それでも生きていることを。
放哉が、明治十八年一月二十日鳥取市立川町に裁判所書記信三・なかの次男として生まれて、いよいよ百三十年。鳥取市では「放哉の会」が中心となり、全国の愛好者が集い、記念フォーラム等が挙行される。関係者の御尽力に敬意を表し、多くの方々が放哉の故郷を楽しまれることを願う。
県立第一中学校(現鳥取西高)から句作に親しみ、一高で井泉水と出会い、東京帝大を経て保険会社に勤務するも、酒に溺れ職場になじめず、「漂泊の俳人」となる。
海の近くで住みたいと井泉水に頼み、南郷庵(みなんごあん)へ。終焉の地小豆島でも知己へ熱心に手紙を送っているが、「寒い殺風景な処」、「コンナイヤナ、ウソだらけの社会」と不平を書き、金銭の無心を繰り返す一方、作品を送り続け句作への情熱を燃やしていた。
「障子あけて置く海も暮れ切る」
放哉の原句「すつかり暮れ切るまで庵の障子あけて置く」へ井泉水が筆を入れた添削句稿に、昨年県立図書館で出会った。閉じかけた命を前に、自由律の同志の絆が太く輝きを放つ。
決して孤独の中で放哉の世界が生まれたのではなく、支える人々の姿があった。
「いつも机の下の一本足である」
県民のため地域のため重い課題に挑戦するとき、私はこの句を唱える。放哉には世に尽くす志があった。
放哉が自らを「人間礼賛に熱心」と言っていたのは、嘘ではあるまい。
大正十五年四月、深い孤独のまま、線香花火のように生涯を終えた。
鳥取城近くの龍峯山興禅寺は、藩主池田家の菩提寺。放哉も眠る境内に、句碑が静かに佇んでいる。
「春の山のうしろから烟が出だした」
最期の句として知られ、病床から見た烟に春が来た喜びを感じた句とされるが、実は自らの野辺送りの烟を見たのではなかろうか。
放哉の遺した魂の烟は、遠く時空を超え、今も私たちの胸にたなびいている。
放哉の咳が聞こえてきた。